• 比較・国際教育学研究者/植田啓嗣のホームページ

タイの学歴社会(バッド・ジーニアス)

※タイ映画「バッド・ジーニアス」の日本語版パンフレットに掲載された解説文です。

 いよいよタイでも大学受験をテーマにした映画がつくられるようになったのか、それが『バッド・ジーニアス』を見た時、私が最初に感じたことである。日本では大学受験をテーマにした映画やドラマが多くつくられているが、タイではこれまで大学受験をテーマにした作品は私が知る限りなかった。本作品のヒットは、タイ社会においても大学受験が身近な問題に感じられるようになってきたことの証左である。
 まずはタイの学校教育制度について説明しよう。基本的には日本と同じ6・3・3・4制であり、小学校と中学校の9年間が義務教育となっている。ただし、中学校・高校の6年間は一貫教育として行われることが一般的であり、高校3年生は中等(マッタヨン)6年生と呼ばれる。18歳のときに大学受験があるのは、日本もタイも同じである。タイでは日本以上に学歴が今後の社会的地位に影響を与える。
 タイの学歴社会を論じる前に、「学歴」の本来の意味を確認しておこう。日本において、大卒者の間では学歴と言うと、どこの大学を卒業したのかを指すことが多い。しかし、これは本来の意味での学歴ではない。学歴は同じ「大卒」なのである。社会学者の吉川徹大阪大学教授は、大卒の中の学校歴による序列を「ミルフィーユ」にたとえている。ミルフィーユのいちばん上の層に東大や海外有名大があり、その次の層に旧帝大や早慶があり、といった具合だ。ミルフィーユの下には高卒以下(非大卒)の人々で構成されるスポンジケーキがある。上のミルフィーユと下のスポンジケーキの差が本来の意味での学歴である。便宜上、ミルフィーユの中の学歴のことを「学校歴による学歴」と呼んでおこう。
 「学校歴による学歴社会」を考える際、タイ社会においては、出身大学が給料や昇進に強く影響を与える。タイの東大と言われるチュラロンコン大学や海外の有名大学を卒業した者が社会的に高い地位にあり、高給取りになる。彼らはミルフィーユの最上位層にいるのである。その次にバンコクの有名大学、地方の有名大学、地方の比較的新しい大学、そしてラチャパット大学や職業系カレッジと、ミルフィーユの層が続いていく。ここでラチャパット大学について説明しておこう。ラチャパット大学とは、もともと教員養成機関であったが、さまざまな学部ができて90年代に総合的な高等教育機関となった(大学と呼ばれるのは2004年から)。ラチャパット大学は現在全国38か所あり、教員養成と地方の人材育成
を担っている。
 タイ社会では私立大学出身者に比べて国立大学出身者が圧倒的に優位である。日本では早慶をはじめ、多くの私立大学出身者が社会的に高い地位にいる。しかし、タイの場合は、私立大学出身者は軽くみられる傾向にある。それは受験制度が影響しており、タイでは国立大学に合格できなかった生徒が私立大学に進学する構造となっているのだ。
 先ほど紹介したラチャパット大学は、主に地方にいる子どもたちに対して専門的な学びの機会と、大卒者となるチャンスを提供している。タイ全体の高等教育機関(大学)への就学率を見てみると、1970年時点では3%であったが、1980年代に20%まで上昇した。そこからしばらく停滞していたものの、1990年代後半に大学への就学率が上昇して、現在は50%程度となっている。90年代後半から大学への就学率が上昇した理由として、90年代前半に義務教育が中学校まで上げられたことやラチャパット大学をはじめ地方に大学が整備されたことが挙げられる。また、誰でも入学できる公開大学が整備・拡大されたことも就学率上昇に影響を与えている。
 チュラロンコン大学近くのサイアム地区は若者たちで溢れている。サイアム地区は日本で言うところの渋谷のような街である。サイアム地区の中心地であるサイアムスクエアを歩いていると、学習塾が多く集まっていることに気がつく。都会では学習塾産業が好況のようである。ちなみに、タイには予備校がないので、受験に失敗した生徒は学習塾に通ったり、公開大学や私立大学に入って仮面浪人をしたりするようである。多くの高校生が大学進学をするようになり、学業成績や大学受験に敏感になっている現在だからこそ、『バッド・ジーニアス』が支持を集めることになったのだろう。
 『バッド・ジーニアス』に登場しているリンたちは海外の大学を目指している。富裕層の子どもたちは海外に進出する傾向がある。アメリカ、イギリス、オーストラリア、シンガポールなど英語圏だけではなく、中国や日本に進学する生徒もいる。日本学生支援機構(JASSO)が毎年8月にバンコクとチェンマイで「日本留学フェア」を開催し、タイ人留学生を呼び込むほど、海外留学が活性化している。
 タイの大学のレベルはどの程度なのだろうか。イギリスのタイムズ紙が毎年公開しているThe Times Higher Educationのアジア大学ランキング2018 を見てみると、タイの大学では97位になってやっとマヒドン大学が出てくる。ちなみに日本の大学のトップは東京大学で8位である。タイの大学はまだまだ世界レベルの学術水準に達していないと言えよう。国内の大学のレベルがまだ十分に高くないので、海外大学を卒業するということはタイ社会ではかなり高いステータスにいるということになるのである。
 続いて、本来の意味での学歴である大卒と非大卒の間の差の話をしよう。タイは都市部には大卒が多く、地方には非大卒が多いという特徴がある。バンコク首都圏では労働者の4割くらいが大卒者である一方で、イサーン(東北部)では労働者のうち大卒の割合は1割程度である。90年代まで中学校進学が義務化されていなかったこともあり、イサーンでは労働者の半分以上が小卒以下の学歴である。
 同じ地方の中でも都市部と農村部・僻地では教育条件に大きな差がある。日本でも公開された『すれ違いのダイアリーズ』(2014年)を観ると、学校間の教育条件の差がわかる。この作品はラブストーリーであるが、タイの教育事情をよく表している作品である。
 ビー先生が務める水上学校は、教員が一人しかおらず、教具や教材が必要最低限のものしかない。一方で、都市部の学校では多くの教員がおり、立派な校庭やプールまである。ちなみに日本のほとんどの小学校ではプールが置かれているが、タイではプールのある小学校は極めて少ない。プールのある学校は教員やその他の施設設備も整えられている。水上学校は極端な例であるが、タイの地方農村部では、小規模の小学校が多く、教員や設備面で課題のある学校が多い。また、地方農村部では、中学校が整備されていないため、小学校の中に中学校課程を併設している場合がある。このような農村部の学校の子どもたちの多くは、『バッド・ジーニアス』に見られるような成績競争・受験競争とはほとんど縁
がない。
 『バッド・ジーニアス』と『すれ違いのダイアリーズ』を観ると、タイの教育事情がよくわかるので、ぜひ両作品を見比べてほしい。
 ところで、リンとバンクが「奨学生」として大きな垂れ幕で校舎に掲示されていたシーンがあったのに気付かれただろうか。映画なので誇張のための演出だと思われたかもしれないが、実際にタイの多くの学校では成績優秀者を顔写真付きで垂れ幕や看板で張り出している。日本の学校ではスポーツの全国大会出場などで、生徒の名前を垂れ幕で張り出すことがある。しかし、学業成績優秀者という理由で、しかも顔写真付きで貼り出すなど、個人情報の管理に厳しくなっている昨今の日本の学校においては考えられないことである。日本の学校文化とタイの学校文化の違いを感じ取ることも、この映画の楽しみ方の一つとしておすすめしたい。

≪出典≫「『バッド・ジーニアス』から見えてくるタイの学歴社会」、『映画バッド・ジーニアス公式パンフレット』、pp.12-13、2018年。